進化と次元と禁忌犯しゃ82・6%賭け 【第五章】天水訟と調停を引き受ける人形(8)

「それじゃあ一番手は俺で。頑張りますわ」
 最終ステージの競技が始まった。一番槍を志願したケイジロウの挑戦は、残念ながら八歩で終了する。いままでの三人と違って落下音と水しぶきの音は聞こえない。今回の場合は落とし穴と便宜上呼んでいるが、落ちるわけではなく六次元の方向にずれてしまうだけだからだ。通常の人類が認識できるのは四次元プラス五次元の一部であり、ケイジロウももちろん例外ではない。天水訟四階の六次元トラップは、歩いている四次元人を知らず知らずのうちに六次元の方向に誘導するものである。なので六次元視不可能な生物は帰るすべを持たない。時間が経てば戻れるとはいうのは、罠の性質上、塔の最上階に登るのを阻止するだけなので、挑戦者を拘束することでも危害を加えることでもなく、心さえ折れればいいため、そういうコンセプトで設定されているということだ。四次元人が生活する通常の空間を歩いているつもりでも、いつのまにか六次元の方向にずれて歩いていってしまい、戻れなくなる。しかしある一定以上の時間が経過すれば六次元方向へのずれが解消され、元居た座標に戻って来られる。それがスズキが仕掛けた落とし穴の概要であった。
「美少女探偵カバコちゃんが推測すると」目の前でいきなり姿を消したケイジロウから、カバコがひとつの仮説に到達したようだ。「高次元のことを低次元生物が想像するのはすごく難しいことだから、次元を落として考えるのが吉。だから罠の次元を三次元まで落としてみるとわかりやすいの。たとえば二次元表面上を歩いている平面カニの目の前に、三次元的に角度をつけた板を置くとする。二次元視しかできない平面カニのような生物でも、三次元方向にはある程度移動可能なのは身体の構造上問題ないわ。ただ、どこを歩いているのかが本人にはまったく知覚できないだけ。そして板の先に捕獲場所を用意して置き、そこに平面カニが到達した時点で、平面上の移動を封じる三次元方向への長さを持った壁で囲んでしまえば、もう平面カニはそこから出ることができない。天水訟四階の落とし穴はそういうからくりのはず。道を選択し間違えると一瞬で地下に落とされるのじゃなく、徐々に拘束場所に誘い込むのが、今回のトラップだとしたら、突破は可能よ」カバコはケイジロウが消えた先を、憤懣やるかたない思いで見つめているトウヒに問いかける。「トウヒくんはユウさまと調停を引き受ける人形の前で、永遠のパートナーになることをできれば避けたいと思ってる?」
「最悪の場合は妥協して我慢すべきだろうと頭では理解しているけど、可能ならば全力で避けたい」
「二世代前は哺乳類ですらない二次元生物。成り上がりで四次元生物になった、なんちゃって四次元美少女カバコちゃんは、トウヒくんにとってどうなのかな?」
 浴衣姿のカバコがくるりと一回転する。濡れてしまった自分の服の代わりにトリノから借りた鳳仙花の柄のものだ。塔に登る際、ジャージのほうが動きやすいでしょとトリノから着替えを勧められても、頑なに拒んだお気に入りの浴衣だ。髪を結わずにソバージュヘアそのままなのだが、こうして見ると割と違和感はない。
「永遠のパートナー云々は内地の都市伝説だからね。それを抜きにするならユウさんよりずっとましだよ。変な悪巧みを考えていなければの話だけど」
 トウヒの回答にカバコは嬉々とする。
「君とふたりで登りたいって脳内変換したから」トウヒと視線を合わせたまま、カバコは後ずさる。「トウヒくんが五次元人って知ったとき思ったの。高等な人種さまは低次元人なんて見向きもしないんじゃないかなって」
 かこんかこんと桐下駄が鳴る。黒い台に紅い鼻緒が可愛らしい。トウヒの瞳の変化と自分の感覚を信じたカバコが後ずさりを止め、左に横滑りし始めた。
「トウヒくんは五次元人だから、同じ五次元人にしか興味が湧かない」カバコは横滑りを続ける。「だからシャコちゃん以外の女の子は眼中になかったの。そう思ってた」
 横滑りしていたカバコが一歩戻り、今度はまた後ずさり始める。視線は相変わらずトウヒに釘付けで、一瞬たりともそらさない。
「トバコちゃんからのメールは、それはもう見るに堪えられないほどの恨み辛みが書いてあった」一歩、また一歩、と後ずさりする。「でもね。五次元人のユウさまよりも、中途半端なカバコちゃんのほうがましって言ってくれた。それがうれしいの。期待してもいいんだよね?」
 カバコは後ずさりを止め、今度は右のほうに横滑りしだした。こつんこつんと桐下駄が横滑りに呼応する。
「それは約束できないけど今後考えなきゃいけないことだとも思うし、考えたくない気持ちもある」
「いまはそれでいいの。難攻不落の要塞にくさびを打ちこんで、きっかけを作れただけでも美少女軍師カバコちゃんの勝利よ」
 トウヒの瞳の奥の感情と、わずかばかりの自分の感覚を頼りに、後ろへ、右へ、左へ、カバコは移動する。桐下駄は六次元の罠の入口には入っても、すぐ座標を元に戻していた。
 彼女の立案した作戦はかなり上手く機能している。
 カバコはトウヒの目を頼りに最終ステージを攻略していたのだった。部分的な六次元視可能なトウヒにとって、このレベルの罠は丸見えだ。故にホストから他の参加者へのアドバイスに関して、事前に釘を刺されたのだ。真面目なトウヒはそれを遵守している。だからトウヒがカバコに対して正しい道順をアドバイスすることはありえない。
 教えてもらえないのならば、探れば良いとカバコは考えた。
 トウヒの目は罠を見つけ、トウヒの頭は状況を理解し、トウヒの心は感情を生み出す。カバコはトウヒの目からそらさないことで、それらの情報を読みとろうと心がけ、それはいまのところ成功している。あとは自分の感覚だ。もともと五次元視も四次元視も苦手だ。六次元方向にちょっとずれただけでも、彼女の視界は大きく歪んでしまう。トウヒの瞳をずっと見ていれば嫌でも気づくだろう。そう判断したのは正しかった。なぜならば彼女はたったいま、五階への階段に辿りついたのだったから。
「資料見せてもらったときからいいなあって思ってた。意思が強いところがカッコよくって、やさしいところが居心地良かった。海に落ちそうになったとき、助けてくれたことは本当にうれしかった」
 カバコの述懐に対して、トウヒは無言のまま、先ほど彼女が通過していったカラータイルをバッシュで踏んでいく。
 顔をわずかに紅らめ、胸の鼓動が早まるのを止められないカバコに、トウヒが並んだ。視線が合うが、先ほどまではずっと固定していた視線を、カバコは固定できないでいる。
「トウヒくんと一緒にこの先に行けるのが嬉しいの。うん。嬉しい。トウヒくんと永遠のパートナーになれるだなんて、まるで夢みたい。でも夢見る少女カバコちゃんだから、夢見てていいんだとも思う。だからトウヒくんに私の真名を伝えるね」
 カバコは大きく息を吸い込んだ。
 日本人の姓名は本来漢字表記だ。しかしながらこの時代では、戸籍上は漢字で登録されていても一般的な場ではカタカナを使う。それはなぜかというと、舞という異能の存在が原因である。新世紀元年以降、四次元人となった人類が手にしたこの異能の中には、足さばきで対象者の姓名を漢字で書くことにより、強力な効果を発揮するものが多々存在する。それを回避するために、人々は姓名の漢字表記を隠すようになり、政府もそれを推奨した。姓の変更についても容認されたため、新世紀元年以降、日本人の苗字の分布が大きく変わることとなる。かくして現代日本人の姓名は、どういう漢字で書くのか判断に苦しむようになった。それはもし間違えてしまうと、同じ術式が効果を為さなくなるペナルティを受けるため、対象者の姓名を鍵とする強力な舞への抑制力として十分な効果を発揮していた。
 こうして本来の名前の漢字表記は、真名と呼ばれ隠匿されるに至る。それだけ大事なものであるから、教えるという行為は自分の命運を相手に委ねる意思表示に他ならない。年頃の女の子が自分の真名を男の子に伝えるということは、事実上の愛の告白であった。
「華やかの華に筐体の筐。筐体はアーケードゲームの筐体とかの筐体ね。それで華筐かばこなの」
 カバコは照れくさくってトウヒから視線をそらした。彼女の瞳の中でロマンスの源、天水訟の最上階へと続く階段が輝いている。「結構辛い人生だったけど、この瞬間はとっても幸せ」
 桐下駄が階段をこっとんこっとん駆け上る。
 カバコは鼻歌をBGMに、人生の勝利者カバコちゃん勝っち抜けっ、と即興で作った唄を歌う。スキップしながら階段を上っていく途中で、彼女は六次元の狭間に迷い込んでしまった。この瞬間、トトリベカバコは最終ステージから脱落した。
「トウヒくんは階段に罠があること、もちろん知ってるよね」一部始終を眺めていた金ぴか人形がトウヒに問う。「口では綺麗事いっぱい並べてたけど、結局カバコちゃんを脱落させちゃうんだ。彼女はトウヒくんのことを本当に好きでいてくれてたじゃないか。裏切られるのがそんなに怖かったの? ふうん。37・9%がそんなに怖いんだ。62・1%だと全然安心できないんだ。一体全体トウヒくんは何%だったら安心できるのかな?」
 トウヒは82・6%と呟くと、トラップを回避しつつ五階への階段を上がっていった。